昭和四十七年三月十日 朝の御理解
X御神訓 「わが身はわが身ならず、皆神と皇上との身を知れよ」
大変に難しい教えだと思いますね。自分の身と思うなという、わが身と思えば、わが身を神様と見れば神様と見、実にそれは難しいのである。下の方へ「神と皇上」とあるのは、皇上と「すめらのみこと」というのですか、当時の日本の一つの国体というかね、を中心にする考え。そういう思想がありました。の中に教祖金光大神の御教えがあった話ですから、やはりこの神と書かれたのはね、やはり天皇陛下の身を思い知れというのがありました。
身を鴻毛の軽きにおくのも、皆陛下の御為だと。だから天皇陛下の命だと。天皇陛下の命ということは、その当時は天皇陛下を現人神(あらひとがみ)とこう申しておりました。実際人間の姿をしとられるけれども、神様だというわけです。これは神と皇上と同一視したと言うてもよかろうと思います、されたということ。
現在はここのところは大変教え方がね、人間天皇というような頂き方をしております、当てはまりませんから。そういう講釈はいらないと思いますね現代では。ですから私どもは、皇上というのをその国の中心というふうに頂いてよかろうが信心させて頂きます。いわゆる金光大神に寄与する、金光大神に帰依することとなりますとこれは教祖様ということになりますと。教祖生神金光大神と天地金乃神と、天地金乃神様への帰依はそのまま、金光大神の帰依、金光大神への帰依は天地金乃神への帰依と言うことになる。そういう風に頂いたが一番有難く頂けるということになると思うですね。そこがその帰依というか、言うならば私という人間はなくて、私という人間は教祖様へ帰依してしまった。言うなれば、神様へお供えしてしもうた私だという頂き方。ところがそこからが中々問題があると思うのです。
先日から私は風邪を引きました時も、流行性感冒だと典型的なそういう印が体にあった。それでお医者さんがそれを診られると、典型的な流行性感冒だと流感だとなります。それで私共はそういうような解放されたり、病気が早くよくなりますようにというわけである。けれどもそういう時に、病気だけを直して下さいというのではなくて、病気だけ神様へ供えるのでなくて、すべて全体を神様へお供えした大坪総一郎その人が神様へお供えし
てしまう。
ですから、例えば大坪総一郎に借金があるなら借金も一緒にお供えしてしまう。病気があるなら病気も一緒にお供えしてしまう、こういうわけなのである。そういう頂き方が本当にある証拠に、そういう頂き方がすっきりして下されば、すっきりする程、おかげを受けることだけは間違いない。
玉水の湯川先生の生き方というかね、その筆法というか、どんなに借金して参ってきても、その借金をお金の方も、お前の金お前の借金と思うな。もう今日からは金光様が借金を担うて下さるのだと。お前は心配するなと。只お前は○○商店といっていたのを、○○商店のお前は番頭さんだと、家内は女中さんだというような頂き方。ですから、今日は幾ら借金払いが出来ました、今日は集金が幾らありました、また幾ら借金が残っておりますと、御主人であるところの親神様へ報告するだけでよいのだぞと。そういう生き方を徹底して守らせられた。
ですから【】が出ますし、また借金払いが出来ました。金がちっとばかり貯まってきますと、自分がソロバン持つと、また足らんようになる、とまた足らん事になるということになるという事実があったわけである、またあった話であります。だから、ここのところの観念をスキッと頂けたら、お金に不自由をすることは絶対にないことでしょうね。
借金すべてが神様に、言わば御ものとしてしまえ、そのかわり○○商店と言っていたのも、言うなら神様の御ものとして、そして自分はそことの支使用ということにしてしまう。病気もそうです、どんな病気であろうがです、自分の病気と思うとるから、自分の体と思うておるから、自分の病気になった。
ですから先日自分の風邪の時に、神様に頂いたのが意味がよくわかりませんでした。今でも本当によくわかりませんけど、風邪だけでなく、全部をお供えせよと頂いた。そこで、本当にそうだなと理屈の上では分かっている。ですからそういう気になってお願いさせて頂く。まあ三日間朝の御用だけで休ませてもらった。
で、昨日から平常に御用させて貰っているのですから、金は、風邪は神様にお供えして、御用に使われるだけお下がり下さるようなものであります。その時に、まだちっとばかり風邪を残してきているというようなものです。だからいわゆるスッキリというのは、そのくらい難しいものですね。だから人間の観念をすっかりお供えするということはそんなに難しいこと。だからそのことを様々な事柄から、そのことを捉えさして貰って、段々段々、それをその考え方をスッキリすることが信心の稽古と言ってよいわけです。
それがその時に思うたことは、それなら風邪だけでなくて、何もかもお供えすることなのであるから、二年来難儀をしておる、皮膚病の方も一緒にお供えさせて貰う。おかげでその三、四日寝ている間は全然痒さを感じなかった。神様は受けてしまってござる。
昨日風呂に入っている時に、風呂に入る時にシャワーを先にかかります。それで熱いお湯をかかりますと非常に気持ちが良い、あっという程のお湯をかかりますと、だからその前々日お風呂に入っている時は、いつもの習慣になっておりますから、シャワーかかろう
としておりますと、おいちょっと待ったと自分で思いました。思えたんです。シャワーにかかるということは、自分にまだ皮膚病があるということを認めたことになりますから、これはかかっちゃならんということと感じた。勿論かからんで良い程のおかげを頂いた。 昨日かからして頂く時も、そういう気持ちで入ったけれども、少し痒いから、かかったら気持ちが良かろうと思うたから、いやそういうことを思うたら認めたことになるからと、本当風呂に入っておったら、それらを人情と神様がおっしゃた。まだ観念がスッキリ頂いておらんので、また皮膚病もまたちょっと持って帰ってきとるから、そんなら痒いから痒いかごと心地がよかごととしてお願いすることが信心です。だから我意を張ってこうということはないわけです。けどここのこのところが非常に難しい。
ところがです、その前の日のシャワーをまったくからない、そういった稽古が必要です。必要なんです。これを本当に、そのスッキリ神様のおかげをおかげと頂かせせて頂くためには、その稽古も必要であるところに、また次に痒いかとを辛抱しとく必要はない。かからせて頂いて有難いという、そこのところに自分の信心否定というか、つけて来たというか、観念のお供えのまだ不足しとるというか、ところをわからせて頂きました。シャワーをかからせて頂きましたということがおかげ。まあ妙な話になりましたがね。
わが身がわが身ならずということはそんなに実は難しいのです。わが身はわが身ならずと本当にわからせて頂いたのです。もうそこにね、難儀とか病気とかあるはずはないです。神様が貧乏しなさるはずがないでしょうもん。神さまが痛いとか痒いとかおっしゃるはずはないでしょうもん。あるところに、わが身はわが身ならずというスッキリとした信心が出来ていないことをわからせて頂いて、そういうデリケートな心に一つの働きというかね、自分にはないと思うとる心をそこに発見して、その観念もまたお供えしていくという生き方にならせて頂く時にです、成程一切合切が神様の御ものであるということまでが、いよいよわかってくるわけです。
ところが、嫌な病気だけは神様の御ものとしてお供えして、そして都合の良かとだけは自分の御ものというところに間違いがある。借金の時には、神様に借金を負わせといてから、ちっと良かったらもう私かてじゃけんで、お供えはちょこっとばかり上げとる。神様は給料払うとるようなことではおかげにならんわけです。わが身はわが身ならずということは、もう大変に難しいことだと思うですね。けどそれは本当はそうなのです。だから信心とは結局その本当なことを少し少しわからせて頂くということ、いわゆる真実から真実を求め追求していくことが信心だということになるわけですね。
昨日新聞に新聞紙半分くらいな公告に、「天の音楽」という見出しに、相撲の貴乃花さんが、大きな写真が載って、いわゆる本の宣伝のが載っておりました。一冊が七百円という、その新聞には書いてありませんでしたけれども。昨日高橋さんがそれを買ってきて下さった。それをパラパラと見せて頂いたのですけれども、あの霊友会という新興宗教があります。女の教祖的な方が開かれた。もう大変な勢いで全国に流行って参りました霊友会。霊の友の会と東京かどこかにあるでしょう。その方が話されたりしたことを、その息子
さんが書かれた。本にして出しておられる。亡くなられたのです。 けれども、その何というかね、宗教的なその思想の低級さというか低さというかね、まあ本当に目開き千人・盲目千人という、もうちょっとばかり見てから、読もうごとない様な感じが致しましたけれども、パラパラと見せて頂いた。だから決して嘘のことを言っておられるわけではない。もう一から十までお先祖様さえ大事にして、お先祖様を助けたらもう世の中の難儀というものはせんでもよいという、もう徹頭徹尾した、やはり教えでありますね、教えというそういう宗教なのであります。教えらしい教えというものはありません。
それをまあ読ませて頂いてからです、合楽の、私は金光教の信心の素晴らしさということですけれども、その金光教の信心の素晴らしい、一番素晴らしいと思う私は。信念させてもらうところを、合楽では日夜説かせて頂いとるわけですけれども、どうでしょうかね皆さん、そのお先祖様を大事に、ならここでもお先祖様を大事にする。大事にするということは親を大事にするという意味で申しますね。親を大事にするということだと。だから信心の初歩の人、初めの人には、私は必ず言うこと親を大事にする、もう親を大事にするだけではない、同時にしゆうごとしてたまらんという気になれということ。
だからその一番手前のが肉親の親であるならば、お先祖様はまたその次の親なのだ。帰ったらお仏壇どもちゃんとお供えさせて貰うて、そしてお花ども上げて、お先祖の好きであるようなものでもお供えさせて貰うて、朝晩今までしなかったことを大事にさせて貰うてと、これは私もそう申します。それは天地の親神様の御心にそれは適うことだからです。けど本当に親が喜ぶということはどういうことなのか、本当に御霊様というか、本当にお先祖を大事にするということはどういうことなのか。
例えば心は、まあ御道の信心で言うなら和賀心。和らぎよろこぶ心もないのに、只お先祖様さえ大事にさえすれば、立派にさえすればよいというので、助かるというのはそれは事実でしょう。それはその本を読ませて頂いとって本当にまあビックリするような、人間業ではとても出来ないと思うようないろいろな修行を時々なさったんだそうですね。だからそういう修行ということは、確かに霊験というかね、病気が治ったり、奇跡を表すというような働きになることだけは絶対です。
だからやはり修行はせなければいけません。いわゆるお先祖様も大事にせなければいけません。いかに人の真似の出来んような修行させて頂いてもです、それが只病気が治ったというだけでは、私はもう、言うならどうでしょうかね。いわゆる宗教思想の低級さというか、だからその程度の高いとか低いとかいうことは、複雑であるとか、難しいというのか、必ずしも程度が高いということはないです。
例えばお釈迦さまが説かれた仏教なんというものを、この方はもう日蓮宗一本ですから、いわゆる法華経の信者なのです。なら法華経なら法華経だけではありませんが、たくさんの何万巻かある、そのいわゆる経文の中には、たくさんないろんな教えがまあ全部が教えでしょうけれども、そういう難しいものを持っとらなければ高度だという意味ではないのです。
なら私がここで言ってもいる、只和賀心、和賀心というその行き方、もうこげん単純なことはないです。だからそれが低いかというと、和賀心時代を創るということの意味の深遠さというか、程度の高さというものはもう最高です。それをあらゆる角度で、ここから勉強しておられ、また聞いておられるわけです。
御先祖様さえ大事にすりゃ人間が幸せになる。まあ幸せになることはどういうことかというと、病気が治るとか、金銭に不自由しないとかと、とまあ致しましたに致しましてもです、人間が向上するということには一つもつながらない。わが心が神様に向こうて行くというようなことには一つもつながらない。
人間の幸福というのは、私の自身の心がどういう中にあっても、昨日の御理解じゃないけれども、それこそ庭の松の木に雪が積んでる、それではないですけれども、色さえ変えんで済む程しの尊さ、有難さ、そういうものを自分の心に頂いて行くことこそが、これは永久につながるところの幸せな心であり土台である。それを合楽では説いとりますから、例えばお先祖様だけを大事にすればどんどん助かると、助かったというような話では、決してそれは嘘じゃない本当なのである。だからそれきりにしたら、私は言う、程度の、程度の低いというかね、只目の前の御利益を頂くということ。
それとても、もうこの頃から霊友会に入ってる方で、もう毎日毎日死のうか生きろうかと、もう今でもある方達がその方のことをお届けなさっておられますけれども。毎日毎日部屋を閉め切って、お線香立てて、「南無妙法蓮華経」を唱えさせて頂いて、そしていつ死のうかいつ死のうかと考えておられる不幸な方があるわけです。で、その方の御主人が寒中修行中にずっと参って来とられました。それでその合楽にその方も一緒に何日か参ってこられたのですよ。 そしたら、その霊友会のやはりこちらに支部があるでしょう、その支部の方達が大挙してやって来てですね。もう丸きり脅迫です。「そげなことしよると罪被る」と言うて、いうような意味のことで、徒党を組んでやって来る。それで恐いから、「もう合楽に参りたいから参りません」と言うて、だから御主人だけは霊友会ではないから参ってきたというようなわけなのです。けどね、二三日前に聞かせて頂いたのですけれども、大変気分が穏やかになられてから、段々おかげ頂かれよるというわけなのですけどね。
だから霊友会で本当に先祖を大切にしたから、お祭り替えしたから本当に助かりよるとばかりも言えへんわけです。ね、だから、けど私はお道の信心させて頂くものは、例えば本当に私が言う信心を皆さんが一緒につとめさせて頂よりゃ、親も大事にせなければおられないし、先祖もなおさら大事にせねばおられないのが、私はお道の信心だと思うのです。
だからそれは、信心の一つの枝葉である。それでも例えば教祖的な、宗祖的なその生き方というのがです、狂信的な気違いと思われるくらいな修行をやはりしておられる。だからこれはもう霊友会に限らない、何でも修行すれば、そういう霊験・体験と言ったようなものは頂けるという事実をね、例えば昨日は本を読ませて頂きながら思わせて頂いた。そ
れこそ石の地蔵さんもよい石のほこらでもよい、それこそ一心を立てれば、わが心に神がござるからおかげになるという、神がござるというということであります。
ですからね、例えば今日あたり、わが身はわが身ならずといったようなところの信心をね、段々高めていくということは実に難しいこと。自分の身ではありながら、自分の身ではない、神様の身です。だから昔の方達は、自分の体にちょっと怪我しても、あなたの体に私の不注意のために疵を付けたことをお詫びをするというふうに言うとられます。ですから本当に、あなたの体として頂けれる。口で言うことはきやすいのですよ。今言うようにあなたの体、けれども本当にあなたの体と言う時には、もう無病息災であらねばならん時です実際は。
それをなら無病息災である時には、自分の体と思うてわが良かごと使う、そして病事をする。そして病気した時だけ、あなたの体、だからそういう一つのチャンスを掴んであなたの体であると、本当に自分で自分の体でない証拠。そこに起きろうと思うても起きられん、御飯食べようと思うても食べられん、成程神様のお許しが頂かなければというようなことがわかってくると同時に、わが身がわが身ならずというところがわからせて頂いて、病気だけのお供えじゃない、体一切をお供えさせて頂いて、そしてこちらに必要なものだけは、こちらにお下がりを下げて頂いて、御用に立たせて頂こうという、その時に私は今日の御理解で申しますと、その皮膚病も一緒にお供えしとったはずじゃったけれども、やっぱり体のお下がりを頂く時に、やっぱりちっとばかり持って帰ってきておるというような感じです。そこにわが身はわが身ならずと思うことの難しさを感ずる。観念のお供えがこのように難しいということを感ずる。
神と皇上との身と思い知れよと、思い知らされるということ。そういう機会を私どもは、様々の時に思い知らされて、それを絶対のところまで高めさせて貰う、本当にわが身がわが身でないということを、絶対のところまで持ってこなければいけません。
昨日私は、或る書物を読ませて頂いて、書き抜きをしたものがここにあります。親鸞上人ですから真宗のお坊さんが書かれた本です。それを私風にちょっと書き抜いたのですかね、色々わからせて頂いた。釈尊、お釈迦様、彼はあらゆる自然現象に対し、人間の優越性を叫び出した、太陽よりも、地球よりも、われ自身の心の寛大さを叫んだ。かくて釈尊は、天地の神々は自分の運命を支配するものでなく、自分が天地の神々を支配するものとなった。かくて彼は「天上天下唯我独尊」の生涯を味わうことになるというのですね、素晴らしいですね。
もう私は教祖金光大神の教えも、釈尊の悟りも同じだと思うのです。これは教祖金光大神の御言葉を借りますとね、心より寛大なものはないという、天地を包んでしまう程しの、心というものは大きいものですよ、人間の心というものは、だから運命論ならここに書いてますように、その当時のインドの宗教というのは、何々の神、何々の神と、神様は沢山ござった。その神が人間を支配しておったと。だから例えば地震なんかあるともう、お詫びしぬいた。よいことがあったら神のおかげと言うて、その何かを捧げて御礼を言うた
というような宗教であった中からね、釈尊はこういうふうに人間の方が優越だというふうにね、悟られた。自分が神々を支配する身となったと。かくて、天上天下唯我独尊という生活を味わうということになったというのである。
金光様の御信心もやっぱりそうですよ。天地が自分の心で自由になるという、わが心一つでどういう例えば運命下にある人でもです。だから運命から一歩も出きらない人は、一生その運命に終わっていくわけです。ところが、金光様の御信心をさせて頂くところからです、その運命というものをガラリと変えることが出来る。その心一つで、ここにも今申しましたようにね、天上天下唯我独尊というのはこういう意味なのです。
生神金光大神も、私は天上天下唯我独尊だと私は思うです。ですから、私どもはわが身はわが身ならずというような境地というのは、そういう天上天下唯我独尊を味わう生活なのです。天地を自由にする程しの生活に入ることなのです。その教えを、まあその一部を体得した親鸞がね、「信心の行者には、天神地神も服し魔界下等も障碍(しょうげ)することなし」と親鸞上人は釈尊自身の自覚の境地を味おうておるとあります。
信心の行者ということは勿論、私がここで言うならば御道の信心、真の信心、本当の信心をするものには、もう天地の中にですね、例えば魔界があろうがね、どういう下等の道があろうが下等も魔界もサタンも。もう私どもの心の中に、私どもの申しますような信心が出来た、信心の行者とここではいうとりますけれども、わが身はわが身ならずというような悟りの開けた信者の前にはもう何もないというのである。もう魔物も寄り付けないのだと、下等も寄り付けないのだと親鸞は悟っておる。いわゆる釈尊が悟られたものだと、やはり親鸞も悟っておられるのだということを書いて、こういうふうな、また難しゅう書いてあったけど、私がわかりやすく書いた、私が言ってるところがそうでしょう。
成程、御先祖様の助かってござらん人があるかもしれん。成程暦の上段下段と見ると、やはりよい日柄とか、家を建てるのには家相といったようなものはあると。けれどもね、お道の信心を必ずするならばそういうことは何にも、台風の前の光のようなもの、それでも一つの光ではあるわけです。先祖を大事にするというような宗教も嘘じゃないです、悪かことじゃないですけど、私が言っておる和賀心を創ろう、和賀心時代を創ろうとする生き所はですね、どういうことがあってもです、どういう運命の神様であろうがです、どういう金神様であろうがです、天地金乃神様の信心をここまで悟られた者の前には、悪魔もなければサタンもない、消えてしまうのだと。
和賀心の前には、どういうような、例えば金光大神の御取次を頂いて家を建てるのであるから、差し障りがないということはそういうことなのです。金光大神の御取次を頂いて結婚するのであるから、黄道吉日を選ばなくてもいいということになるのである。大風の前の小さい光のようなもの、それは嘘ではないというようなことにまでなってくるのです。
ですからね、もう今迄のたくさんの言うならば信仰者、何千年来、例えば仏教が三千年続いとるなら三千年前来、キリスト教が何千年続いとるなら、キリストが何千年という間
には、こういう例えば素晴らしいことをやはり体得したり悟ったり、又は体験の上にも表したりして来とるわけです。けれども、これを勉強することになったら大変なことなのだ。それかと言うて、程度の低いところで御霊様さえ助かれば人間は幸せになるというような、単純なものも仏教の中にはあるわけです。
この霊友会なんかその一例である。だからと言うて御霊様だけ助かった、自分だけ助かった、病気が治った、金が儲かっただけならよかろうばってん。間は次の心が助かっとらなければ本当の助かりではないというのが私が言うとることです。和賀心時代でなからなければ。信心によって私どもは心の中に和賀心を創らせて頂くところからです、本当に信心の喜びの頂点というのは、もうわが身はわが身ならずという程しのところにあるのです。我情我欲を放れる。真の道を知る。それを体験する。わが身はわが身ならずという程しのところがわかる。同じ境地なのです。
だから私どもがいかにして和賀心を創って行こうか、いかにして和賀心にならせて頂くかという信心修行一つにしぼって行けばです、それこそお釈迦様もキリスト様も解き得なかった。最高のところにくることが出来るんだ。体験することが出来るんだ。理屈、難しいことを言うことはいらんのだ。そういう私どもは例い信心を日々身に付けさせて頂く稽古をさせて頂いておるというね、やはり自覚に立たなければ、私は昨日その書物を読ませて頂きましたら思うたのですけれども、これ程合楽で説かせて頂いとることを十五分間か二十分ばっかりの間で説明できる方が何人いるだろうかと、金光様の信心はこんなに有難く素晴らしいんだと。いわゆる先祖も助かれば自分も助かる、只どういう時点にあっても、自分の心の中にそれこそ( )をも変えぬ心の状態で居られる信心を頂いて行っておる。
この頃から、光橋先生がラジオで放送いたしておりますように、あれはたった十五分間です。十五分間であれだけのことを表現しとるわけです。いわゆる成り行きを大事にという信心を合楽で頂いた話を混ぜて話しとるわけです。だからあのように合楽の信心をキャッチしておる、皆さんの一人一人のです、合楽で私が言うておる、最高のところをですね、どのようなふうにキャッチしておられるか、それを一ぺん言葉に出したり、文章にしたりしてみてご覧なさい。
そして昨日高橋さんにその本をちょっと見させて頂いて、成程これも立派な人の助かりということにつながるのですけど、もっともっと本当の助かる道がありますよ。もっと簡単にこういう生き方があるよと、その中に葉書が入っておりましてね、感想を書いて寄稿してくれというのがありますから、それを書いて出そうかなと言ったほどです。
それはどういうことかというと、宗教革命なのです。私がそういう霊友会なり、霊友会に「あなたのこの助かり方も素晴らしいですよ。けどよりもっと素晴らしい助かり方があるのですよ。永久的に助かっていけれる道があるのですよ。そしてあなたが仰っとられる先祖も大事にしながら、御霊様も大事にさして頂きながら、より大事にしなければならないものがあるのですよ」と。私がもしその手紙を出すことになると、宗教革命の第一歩と
いうことになるのですよね。
だから、あらゆる宗派宗門に、なら私の言っていることをともっともっと素晴らしい表現でですね、精神は同じであっても、それを言うならば公表できるようなところまで行くためには、皆さん自身がそれを知るだけではなくて、そのことによってこのようなおかげが受けられるんだと、和賀心時代を創るという姿勢を作っただけでこういうおかげが、体験が生まれて来るんだという。その小さいおかげの手本というものを作んなさらなければ、言うてやっただけではいけませんからね。
だから、私は言うてやれるといってまあ、勿論出しはしませんけれどもね、それを話したことでした、そういう大変なことを合楽では皆さん教えて頂いとるわけでございます。だからそれを自分のものにして行くために、体験と同時に表現とでも申しましょうか、というようなものも作って行かねばいけません。
それこそ、お釈迦様やらキリスト様の、親鸞上人様の仰った素晴らしいこと。そのことは、教祖様はもっともっと素晴らしいことで容易く、その容易い表現が、今度は実を言うたら、容易過ぎるから、余り難しいところを、合楽ではですね、皆さん、なら今お釈迦様の言葉なんかをここで聞いて頂いてもわかられると思うのです。合楽で御理解頂いてるから、合楽でそういう高度のところを目指していることがわかるわけであります。
わが身はわが身ならず、聞けばすぐわかりますけど、それを実践の上ですると、私自身が、自身ですらが理解出来とるわけではないが、大変難しいこと、その観念をスッキリお供えすることにいよいよ絶対のものとして信ずる心というものが形の上にも現われてくるようになるのですよね。どうぞ。